社会主義や共産主義について調べていると、どうにも引っ掛かるところがあります。

もともとは格差をなくし、人間を平等にしようという考えから生まれたはずなのに、実際にできた国を見ると、ソ連では共産党の幹部や官僚が強い力を持ち、北朝鮮では最高指導者の地位まで一族で引き継がれています。

北朝鮮などを見ていると、自分には昔の貴族社会とそれほど違わないようにも見えてしまいます。

もちろん、昔の貴族制度と同じではありません。爵位があるわけでもなく、ソ連の党幹部が国の土地や工場を自分の財産として所有していたわけでもありません。

ただ、土地や企業を国家のものにして、その国家を動かす人たちが、誰に住宅を与えるのか、誰を重要な地位につけるのか、誰により良い生活を与えるのかまで決めるようになれば、そこには別の形の特権が生まれます。

貴族の権利を取り上げて平等になったというより、貴族が持っていた力を別の人たちが持つようになっただけではないのか。

そんな疑問が出てきます。

平等と言いながら、なぜ人を上から見るのか

さらに不思議なのが、平等を強く主張する人の中にも、ときどき非常に上からものを言う人がいることです。

「あなたは分かっていない」

「もっと勉強した方がいい」

「正しいことを教えなければならない」

というような態度です。

これは社会主義や共産主義だけの話ではなく、現代の政治運動や社会運動を見ていても感じることがあります。

もちろん、特定の政治思想だけに起こる問題ではないでしょう。保守的な人にも、宗教的な人にも、専門家にも同じような態度を取る人はいます。

ただ、平等を大切にすると言いながら、どうして自分は「教える側」で、相手は「教えられる側」だと考えることができるのでしょうか。

もしかすると、

「人間は平等である」

という考えと、

「しかし、自分は正しいことを知っている」

という考えは、意外と簡単に同居するのかもしれません。

血筋による上下関係を否定しても、「正しいことを知っている人」と「まだ分かっていない人」という上下関係ができてしまえば、別の形で同じようなものを作っていることにはならないのでしょうか。

マヤ暦の終末論を思い出す

こうしたことを考えていて、昔流行したマヤ暦の終末論を思い出しました。

2012年ごろ、「マヤ暦が終わるので世界も終わる」といった話がかなり広まりました。

実際には、マヤの長期暦の大きな区切りを後世の人たちが終末論と結びつけたものですが、当時は本当に世界が終わるかのような話までありました。

当然ながら、2012年を過ぎても世界は続きました。

それなら、

「予想が間違っていました」

で終わる話のように思えます。

ところが、その後には「暦の読み方が違った」「本当の日付はもっと先だった」といった話も出てきました。

こういう話を見るたびに、少し不思議になります。

なぜ、そこまでして最初の考えを守らなければならないのでしょうか。

間違えたなら、間違えたでいいのではないでしょうか。

考えが、自分自身になってしまう

人間には、自分が信じていることと現実が食い違うと、その矛盾を何とか小さくしようとするところがあります。

「2012年に世界が終わる」

と強く信じていた人の前で、何も起こらず2012年が終わったとします。

そこで、

「自分の考えが間違っていた」

と考えることもできます。

一方で、

「考えは正しかったが、日付の計算だけが違っていた」

と考えることもできます。

後者なら、自分の考えそのものを捨てなくても済みます。

政治でも似たようなことは起こります。

「この政策を行えばうまくいく」

と言っていた人が、実際にはうまくいかなかったとき、

「予想が間違っていた」

と考えることもできます。

しかし、

「実施方法が悪かった」

「反対する人が邪魔をした」

「まだ十分に行われていない」

と考えることもできます。

もちろん、本当にそうだった場合もあります。

だから、説明を変えること自体が間違っているとは思いません。

ただ、何が起きても「自分の考えそのものが間違っていた可能性」だけは考えないのであれば、それは少し違うように思えます。

では、どこまで行けば自分の考えが間違っていたと認めるのでしょうか。

その線が最初から存在しないのなら、どんな結果が出ても自分は正しいままです。

「正しい側」にいると思うこと

特に難しくなるのは、自分の意見と自分自身が一緒になってしまったときではないかと思います。

「私はこの政策が良いと思う」

だけなら、後から、

「思っていたより良くなかった」

と言えるかもしれません。

しかし、

「私は正しい側にいる」

「私は社会の問題を理解している側だ」

というところまで自分の考えが自分自身の一部になってしまうと、意見を変えることはもっと難しくなりそうです。

自分の意見が間違っていたことを認めるだけなのに、自分自身が否定されたように感じる。

そうなれば、間違いを認めるよりも、現実の方の説明を変えたくなるのかもしれません。

ただ、ここまで考えてくると、これは他人だけの問題でもないように思えてきます。

自分が強く正しいと思っていることについて、同じことをしていないと言い切れるでしょうか。

「自分は違う」と思った瞬間に、すでに同じところに立っている可能性もあります。

人を変えるだけでは難しい

では、

「もっと謙虚になればいい」

と言えば解決するのでしょうか。

自分自身については、間違っている可能性を考えるよう心掛けることはできます。

しかし、社会全体で考えたとき、人間がそんなに簡単に変わるとは思えません。

長い間信じてきた考えを捨てることも難しいでしょうし、政治家や評論家であれば、立場や支持者もあります。

それなら、人間を完全に変えようとするよりも、

人間は間違えるし、その間違いを認められないこともある

というところから考えた方がよいのではないでしょうか。

間違いが上まで届かなくなる

ここで気になるのが、権力を持った人の場合です。

本人が間違いを認めないだけなら、まだ周囲の人が指摘することができます。

しかし、間違いを指摘した人が処罰されたり、不利益を受けたりするようになれば、だんだん誰も何も言わなくなります。

会社でも似たことはありそうです。

社長に悪い報告をすると怒られる。

すると部下は、悪い報告をなるべくしなくなるでしょう。

やがて社長には良い話ばかりが届くようになります。

そのとき社長は、

「最近は問題が少なくなった」

と思うかもしれません。

しかし、本当に問題が減ったのでしょうか。

それとも、問題が報告されなくなっただけなのでしょうか。

国家でも組織でも、同じことは起こり得るように思えます。

間違いを認めない人が権力を持ち、その人に都合の悪い情報まで届かなくなったとき、修正することはかなり難しくなります。

何が起きたら、自分は間違いだと認めるのか

では、少しでもこの問題を小さくするにはどうしたらよいのでしょうか。

一つ考えられるのは、何かを主張するときに、

「何が起きたら、自分の考えが間違っていたと認めるのか」

を先に考えておくことです。

2012年に世界が終わると言ったのであれば、2012年が終わって何も起きなければ、その予想は外れたことになります。

政策でも、

「3年後にこれだけ改善する」

と言ったなら、3年後に確認すればいい。

もちろん現実はもっと複雑ですし、予定どおりに判定できないこともあるでしょう。

それでも、最初から何の基準もなければ、後からいくらでも説明を変えることができます。

自分にとって都合の悪い結果が出たときに、最初の考えまで戻って考える場所を残しておく。

それだけでも違うのではないでしょうか。

正しい人を探すより、間違っても直せる仕組み

考えてみれば、民主主義も少し似ています。

絶対に間違わない人を探し、その人にすべてを任せる仕組みではありません。

選挙があり、批判する自由があり、権力を分け、問題があれば指導者を交代させることができます。

つまり、最初から人間が完璧ではないことを前提にしているとも考えられます。

社会主義や共産主義について考え始めたところから、ずいぶん話が広がりました。

ただ、最初に感じていた違和感は、結局このあたりにつながっているように思います。

平等を主張していても、自分が人を導く側だと思えば、新しい上下関係が生まれることがあります。

正しいことを言っているつもりでも、自分の考えと自分自身が一緒になれば、間違いを認めることが難しくなることがあります。

そして、それはおそらく誰にでも起こり得ます。

自分も例外ではないでしょう。

そう考えると、「正しい人を見つければよい」という話ではないのかもしれません。

人は間違える。

間違いを認められないこともある。

それでも、その間違いがどこかで止まり、誰かが指摘でき、必要ならやり直せる。

そういう仕組みを残しておくことの方が大切なのではないでしょうか。

本当に怖いのは、誰かが間違えることそのものではなく、誰も「それは違うのではないか」と言えなくなることなのかもしれません。