京都の老舗の跡継ぎの6人組が商品を幅を広げて新しいことに挑戦するために『GO ON』というチームを組んだ。
親からは跡を継ぐなと言われてしまうような伝統工芸の跡継ぎがどうやってその技術で売っていくかを今までの経験を語っている。
海外から伝統の街京都と思われていてもその伝統を継承していくことができない。
日本が戦争で多くの伝統工芸の職人を失い。戦後には機械化という薄利多売の価値観にとらわれ、高くていい商品には見向きもしなくなった。
それでもやっていけたのは日本の1億人という人口の力だったがそれがあだとなった。人口がいるから日本国内の販売だけでいいやという意識が2000年になってもいまだに残っている。
テレビ番組で開化堂社長の八木隆裕さんがお土産店で働いているときに開化堂の茶筒を外人が購入するまで海外という意識がなかった。
海外へ販売をすることで開化堂は息を吹き返すことができたが伝統工芸品をどう販売するかは考えなくてはこれからの未来がない。
過去を見ると日本は日本国内でのみ商売をしていたかといえばそんなことはない。江戸が終わり、明治が始まったとき政府はお金がないことからお金を稼ぐ手段として考えとして工芸品を海外に販売した。
七宝焼きや蒔絵などの工芸品はヨーロッパの文化をそのまま取り入れたために芸術品よりも工芸品と意識しており、芸術品は国外に出せないが工芸品は様々なものが海外へと売られていった。
今の職人では再現できないような貴重な品々は海外では強い人気を出した。
当時のヨーロッパの人たちは日本では芸術品と考えられた品々もあまりに日用品と溶け込みすぎていたために工芸品として考えられていたようではあるが、日本は工芸品で世界に戦いを挑んだことがあるのである。
戦後はなぜか日本国内だけの販売になり、日本の工芸品や美術品は日本国内だけで回るようになる。理由として考えられるのは日本国内にお金があるようになったことが原因なのかもしれない。
そうなると日本国内だけでの販売になり、日本はバブルで自分たちが使う品をプラスチック製品の大量に作られている商品で気にしなくなる。古臭い工芸品にはきっと昔のものだから良い商品ではないという価値観が生まれ見向きもされなくなった。
伝統工芸の後継者もなく多くの技術が消えていった。運よく品が残っていてそれを研究して技術の復活を果たしたものもあるが、人知れずに消えていった工芸品は数知れない。
なかには工芸品ではないが梅ジャムのように後継者によって未来へ残すことを断り自分の代で辞める人もいる。しかし、未来へと継承したいという人は多くいたはずである。
継承させたいという職人の気持ちを汲んで継承した人たちがこれからをどう生き残っていくかを考えたとき、日本には生きる道がない。
日本はバブルで古い物への価値を見失い、バブル崩壊後は立て直すことができない経済によって総中流社会は総下流社会へと変化していく。
これからの日本にもお金持ちはいる。でもその数は限られたものになる。お金のない人は安いものへ安いものへと流れていくのは今までの日本の流れを見てもあきらかだ。
1億人よりも80億人へ目を向けるべき。
伝統工芸がこれからも残ることは日本にとっても良いことであるし、職人が生きていける社会が日本に出来てくることは夢があるように思える。
今の世の中で職人という未来の見えない仕事をしている人達はほとんどが自らやりたいとおもってその道を進んだのだと思うからこそやりたいことをやり続けられる社会は目指すべき社会ではないだろうか。