バットマンの宿敵、ジョーカーがいかにして誕生したのかを描いた映画『ジョーカー』。この作品を単なる娯楽映画として消費するには、あまりにも現代社会のリアリティが詰まりすぎています。
今回は、この映画を観て感じた、言葉にできない「ストレス」の正体と、現代人が抱える疎外感についての考察です。
「普通」を求めて踏み外していくアーサーの悲劇
主人公のアーサーは、障害を抱えながらも「みんなを笑顔にできるコメディアン」を夢見て、ピエロの仕事で食いつないでいる中年の男性です。
彼は嘘の希望に縋り付こうとしますが、その手からすべてがすり抜けていきます。まわりと自分の「ズレ」を必死に埋めようとするたびに、彼は人生を踏み外していく。そのもどかしさと過度なストレスを、彼は煙草を吸うことで必死に誤魔化し続けています。
しかし、まわりに合わせることを止めたとき、アーサーは「ジョーカー」として、自分自身の価値観の中だけで生きる道を選んでしまいます。
ネット社会が加速させる「疎外感」という毒
かつて、人は宗教などに救いを見出していました。しかし現代では、インターネットによって無限の情報に触れられるようになりました。そこには多様な価値観があるはずなのに、実際には「みんなが同じことを言い、同じ方向へ流れる空間」が強固に存在しています。
自分が「まわりとズレている」と感じている人にとって、これはかつてないほどの疎外感を与えます。ネットは欲しい情報を自分で検索できるからこそ、ひとたびネガティブな情報に触れると、まわりとの隔絶は凄まじいものになってしまうのです。
精神の安定を支える「3つの柱」の崩壊
人は、以下の3つが揃っていれば精神の安定をもたらすことができると言われています。
- 健康
- お金
- 人間関係
これらがない人は、悟りでも開いていない限り常に不安が付きまといます。アーサーのように、まわりに比べて貧乏であり、夢が叶わないという現実を突きつけられることは、現代において精神の安定を破壊していく決定打になります。
今の時代、健康だけはあっても、お金も人間関係もない……そんな将来への不安を抱えている人が増え続けている気がしてなりません。
『ジョーカー』に共感してしまう社会の危うさ
個性を尊重するはずのアメリカですら存在する、この「まわりに合わせること」への息苦しさ。では、みんなと同じ向きを向くことが美徳とされる日本でこの映画を観ることは、どれほどのストレスを伴うでしょうか。
バブルの時代なら気にしなかった「差」が、社会が貧しくなるにつれて、鮮明な「疎外」として牙を剥いています。この映画を観て言葉にできないストレスを感じたり、あるいはジョーカーに共感したりする人が増えるのは、今の社会が限界に近づいている証拠かもしれません。
アーサーのように、共感した人が行動を起こしてしまった時……そんな未来を想像すると、何とも言えない気分になります。この映画が突きつけたものは、決してスクリーンの中だけの話ではないのです。






