いきなりだがたとえ話から

カツ丼が好きな人がいる。

山田屋というお店のカツ丼が好きだという人がいる。彼は山田屋の卵とカツの比率が好きでおいしいという。
そんな彼が北村屋というお店でカツ丼を食べて衝撃が走る。山田屋のカツ丼が最もうまいと思っており100点だと思っていた。北村屋のカツ丼はそのさらに上を行く美味しさだった。

さて、彼の中では今までは100点をつけていた山田屋のカツ丼は100点から90点に下がり、北村屋のカツ丼は100点になったのである。

この場合、山田屋のカツ丼を100点のままに北村屋のカツ丼を120点とはしない。たいていの人は点数を下げる方向に行ってしまう。

彼が山田屋のカツ丼を食べたときに北村屋のカツ丼と比較して物足りなさを感じてしまうのである。

山田屋のカツ丼はけして味が落ちたわけではない。ただ彼の舌が肥えてしまった。そうするとどうしても彼の中での山田屋の点数は下がる。

美味しいものを食べるという行為が気づかぬうちに不幸が生まれるのである。

この不幸は些細なことなので気づかないまま彼の中を通り過ぎてしまう。彼が常連になるお店が北村屋になるというだけではない。

カツ丼の値段が山田屋よりも100円高いかもしれないという問題でもない。味の基準が上がることが山田屋が90点になり、それ以外のお店が80点だったお店が70点になり、70点のお店が60点になるのである。

そんなことはないという気持ちの人もいるかもしれない。

その通りだ。

食事に興味がない人はその程度のことなら、山田屋のカツ丼についてくる漬物が美味しいから北村屋のカツ丼が美味しいからと言って山田屋の点数を殆ど下げないかもしれない。

場合によっては下げない人もいるだろう。

ここで重要なのは食べ物だけではないということだ。これがお酒や煙草に換えてもいい。彼女や彼氏でもよい。

比較を生むという感覚が問題なのである。比較をすることでより良いものを得るという行為は不幸を生む原因である。

隣の人の芝は青いとはよく言ったもので比較をすることは是であるという価値観が不幸を生み出すのだ。

この話はカツ丼が美味いお店を知れたからよかったという話ではない。美味いカツ丼を知ることで山田屋のカツ丼を食べたときの彼の幸せを感じる総量減ってしまうことにある。

幸せが減るということは人生を生きる上でのプラス要素が減るということなのだ。

人生において幸せに総量があるのかは分からない。送料がなくても幸せを感じる感覚へのハードルが高くなっていくことは生きることにおいて不幸である。

例えば10点中、5点のお菓子を食べたとする。5点でも美味しくてこんな美味しいものを食べられて幸せといったいた人が8点のものを食べることは幸せなのか。

8点のものを食べたから5点では満足できず7点のものじゃないと嫌だとなると幸せを感じる幅が4点になってしまうのだ。

今までは6点あった幸せを感じる幅が4点へと減少する。これを不幸と感じるのはごく当然のことではないだろう。

良いものを求めるということは不幸になることを追い求めることなのか?

この問題は何が原因なのだろうかを考える必要がある。考えないといけないのは人間は美味しいものを食べることが本来の目的ではない。生物としては栄養のあるものを食べることで幸せを感じるようにできている。

その中でお肉や砂糖を摂取することで脳ではエンドルフィンとセロトニンといった物質が出る。そうすることで幸せを感じるのである。

そうすると人間はもともとカツ丼のような肉を食べることは幸せであるということになる。しかし、山田屋も北村屋もカツ丼の肉の質は違えど肉なのである。

食べると幸せになっているはずである。

同じようにお肉を食べていても幸せを感じる量が山田屋から減少してしまう。これはおかしい。前までは100点の幸せを感じていた物から点数が減っている。

カツ丼が変化したのではない。彼が変化してしまったのだ。彼が北村屋のカツ丼を知ってしまったから起きた状況である。

幸せは大切だ。1日生きても幸せを感じることは1,2つあればいいのが現代人だ。その中で些細な幸せを減少させることは人生全体に影響を与える。ではなぜそれがが起きたのか。

ではなぜこのようなことが起きたのか原因は北村屋のカツ丼をたべたことだ。そこに外的要因はない。

つまり変化は自身の変化であり、状況は変化していない。ということは自身の問題を解決することでこの変化を解決することができるということだ。

一番簡単なのは北村屋のカツ丼を食べないことなのだが、食べた後ではいまさら言いだしても仕方がない。他に味を忘れるまで北村屋にも山田屋にもいかないという方法。

どうしてもカツ丼が食べたいなら自分で作ってもいい。自分で作ることで自分が作ったということからくる満足度、自分が作ったのだから不味いはずがないという意識がはたらき、ある程度の味があれば満足できる。

カツ丼に価値を見出さないことだ。お店ごとにカツ丼のおいしさに違いはある。味の違い以上のものを感じるのだとしたら彼の中でカツ丼に価値を見出しているからだ。

彼が食べ物の中でカツ丼が好きなために特別な価値を見出している。これがプリンだったら彼はどのプリンも味の違いはあれどそれほど差を考えなかったかもしれない。

プリンとカツ丼のちがいは彼の中にあるカツ丼の価値の差である。価値を持つことは悪いことではないがカツ丼への価値を持つことで山田屋のカツ丼の価値は下がってしまう問題が発生している。

カツ丼にたいして食べることへの価値をあげるには彼のなかの味への価値をへらすことができればこの問題はすこしでも解決できるかもしれない。

 

価値の基準を変えるという方法はるのか?

価値は変わらないと多くの人が思っている。お金は1万円の価値はかわらない。千円の価値も変わらないと考えている人は多い。

しかし、為替を見れば毎日変動している。ジュースを買うにしても昨日まで100円だったものが120円になっていることもある。お金の価値は状況によって簡単に変わってしまう。

例えば仕事で違う部署に回されたときに昨日まではリーダーのように働けた人が今日からは右も左もわからない状況では周囲の人から見てこの人の価値はへっている。

価値は気づかないうちに簡単に変わる。周りの価値は状況の変化によって変わるのであって自身の価値を簡単に変えることは難しい。

価値を変えることは難しいのは現在の状況を変えたくないという気持ちがあるからだ。状況を変えることで価値は変わる。

価値観が変ってしまうとよく言われるのがインドに行くことだと言われる。日本とインドでは命の価値がまるで違うために大きな影響があるといわれる。

外国に行くということは文化的な差異があるために効果がある。アジア圏よりはヨーロッパやアフリカなどの文化の違いのある地域がより効果的なのだろう、そこを見てもただ反発して終わる可能性もある。外国を見たからと言って絶対に影響を受けるとは限らないのだ。

外国に行かなければ価値が変わらないのかといえばそれは違のではないだろうか。暑いところに住んでいる人は雪の多いい地域に1ヶ月も住めば考え方が変わる。

生活に対する価値が変わるのだ。雪にあこがれを持っていれば雪が降る地域の生活をすれば雪にたいしての価値が変わるかもしれない。

海外や引っ越しをしなくても価値を変えることができる。

簡単な方法としてい言われるのが体を鍛えることだ。からどぉ鍛えることは継続さえできればほとんどの人ができる行為だ。

身体に筋肉が付くことで自身が変化できるということから今までとは感じる価値が変わる。

価値が変わることさえわかれば変えたい価値に対してよく考えることで変わることができる。体を鍛える以外でも言動に注意して発言することで自然と意識が変わってくる。

日本人は言葉に意味をあたえる。繰り返される言葉から影響されるのだ。繰り返される言葉は気づかないうちに自分へと刷り込まれていく。

古代の呪いは相手に対して「呪ってやる」と告げることで成立した。それは言葉によって人への呪いを掛けることなのだが、現代でも親や教師が勉強ができない頭が悪いといった言葉、友達が「太った」、「力がない」とあなたに告げる言葉はコンプレックスとして長くあなたの中に残る。

これと同じように繰り返される言葉はじわじわとしみついていくのだ。人から言われる言葉でも自分が口にする言葉でも同じことである。

まして人から言われると常に意識するようになりそれがアック影響を与えるようになる。常に思考することでその言葉が正しいと考えるようになると本人が気づかないうちにそちらへと進んでいく。

自分をどう変えたいかを紙に書いてみるといい。そして自分はこうなると朝起きて、寝るときに唱えるだけでもかわっていく。

そこに大切なのはその言葉を話すときに意識をすること、パソコンのディスプレイの壁紙のように当たり前の風景になるとやはり効果は薄くなる。

意識することで自分がどう変わるのかを考える回数が増える。そうなれば変化する速度は変わってくるはずだ。

 

マザーテレサの言葉

思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、
それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、
それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、
それはいつか運命になるから。