2024年8月。私は猛暑の中、3日間の大半を布団の中で過ごすことになりました。高熱とのどの痛み。若い頃なら2、3日寝れば「万事解決」だったはずの風邪が、今では数日経っても体調不良の余韻を引くようになっています。年を取るとは、こういうことなのだと、熱に浮かされる頭でぼんやりと考えていました。
「証明」を求められる時代の窮屈さ
昔と今で決定的に違うのは、ただ寝ていれば良いわけではないという点です。新型コロナという存在が、私たちの「風邪」の意味を変えてしまいました。特に周りが高齢者ばかりの環境では、本人の体感よりも「それはコロナではないのか」という客観的な安心材料が求められます。
仕事場の人たちは、私の持病の喉の症状に慣れてはいるものの、熱が出たとなれば話は別です。同居する高齢の家族を守るためにも、自分が「何者であるか(感染者か否か)」を白白日の下に晒さなければならない……。それはもはや人情という名の、避けて通れない社会的儀式のようなものです。
盆休みの静寂と、閉ざされた「PCRの壁」
確実な安心を得るために、私はPCR検査キットを求めて車を走らせました。しかし、ここで地方の厳しい現実に直面します。
近隣のドラッグストアには、簡易的な抗体検査キットこそあれど、精度の高いPCRキットは置いていません。ようやく辿り着いた薬局の掲示板には、冷たく「8月13日から16日までお盆休み」の文字。ハシゴした他の薬局も、まるで示し合わせたかのように静まり返っていました。商売根性よりも盆の休息を優先する——それ自体は否定しませんが、緊急事態にある者にとっては、この上ない絶望の壁となります。
地方における「不自由」の正体
都会であれば、24時間営業の店舗や在庫の豊富なドラッグストアがどこかにあったかもしれません。しかし、高齢者の多いこの田舎でこそ必要なはずのPCRキットが、連休中にはどこにも存在しない。この矛盾こそが、本当の意味での「地域格差」ではないでしょうか。
生活の不便さとは、普段の買い物ではなく、こうした「病気と休みが重なった瞬間」の無力感にこそ現れるのだと痛感しました。結局、私は16日まで家庭内隔離という不自由な生活を続けるしかありませんでした。
体調は戻りつつありますが、地方に住むということの「不便」の重みを、熱い布団の中で噛み締めた夏の一幕でした。





