シカやキジが平然と姿を見せるような田舎に住んでいると、タバコ一箱を買うのにも車を出す必要があります。お気に入りの銘柄を手に入れるためには、片道20分から30分。しかし、その道すがらの風景には、多くの物語が潜んでいます。

消えゆく「歪んだ窓ガラス」の記憶

最近、いつも通り過ぎていた道沿いの古民家がなくなっていることに気づきました。かつては豊かな人が建てたのだろうと思わせる、広々とした立派な家でした。車窓から見えるあの「歪みのある古い窓ガラス」を眺めるたび、時代の厚みを感じていたものです。

気づけば空き家になり、貸し出しの看板が立ち、そして今はただの更地に。古いものが無くなるのは仕方のないことですが、そこに積み重なっていた時間が一瞬でリセットされてしまうのを見ると、どうしても「もったいない」という気持ちが込み上げてきます。

明治の残り香、ゴールデンバットの終焉

今回、タバコ屋でいつもの「シルクロード」を買い込みながら、少し前に姿を消した「ゴールデンバット」のことを思い出しました。明治時代から続き、芥川龍之介や太宰治といった文豪たちのエッセイや日記に当たり前のように登場した銘柄です。

決して洗練された味ではありませんでしたが、コーヒーの味を邪魔しない軽さと、あっという間に吸い終わる潔さが好きでした。何より、それを吸うことで「かつての文豪たちはどんな気持ちでこの煙を眺めていたのか」と、遠き時代に思いを馳せることができたのです。

しかし、時代の流れは残酷です。「古臭さ」や「名前の響き」が今の価値観に合わなかったのか、歴史あるその命運も尽きてしまいました。もう、彼らと同じ煙を燻らせることは叶いません。

ノスタルジーという幻想を超えて

古いものが消えていくのを悲しく思うこの気持ちを、私は「ノスタルジー」とは呼びたくありません。ノスタルジーとは、自分の中で勝手に作り上げた過去の情報による「幻想」に過ぎないからです。体験したこともない時代を美化する作品に、人は安易に郷愁を感じてしまいます。

私が感じているのは、幻想ではなく、確かにそこに存在したものが失われたという事実への、剥き出しの惜別です。歪んだ窓ガラスの向こうにあった暮らしも、文豪たちの指先にあった煙も、すべては現実の欠片でした。

半年に一度の買い出しを終え、助手席に新しいタバコを置いて帰路につきます。更地になったあの場所を、また一人の住人が通り過ぎていくだけの、そんな静かな午後の記録です。