連日のようにテレビを賑わせている「桜を見る会」の問題。新しい情報が出るたびに、私たちの関心は塗り替えられ、以前の事実はまるで「上書き保存」されたかのように消えていきます。
今回は、この情報の氾濫が生み出す「忘却の構造」と、私たちが直面している静かな危機について考えてみました。
スクロールの底に沈む「真実」
新しい情報が追加されるたび、過去の重要な証拠や発言はリストの下へと追いやられていきます。あたかも一つのファイルの一番上に書き加え続け、下へスクロールしなければ過去が見えない状況のようです。
かつて官房長官が「推薦枠はない」と平然と言い放った嘘も、今では多くの人の記憶から零れ落ちています。自発的にその矛盾を思い出す人は少なく、情報の濁流の中で「一週間前の出来事」はもはや遠い過去の遺物と化してしまいます。
「解決」という名の風化
森友学園問題にしてもそうです。「あれは解決した」と口にする人がいますが、では一体、誰がどのように責任を取ったのでしょうか。音声データという明確な証拠がありながら、今なお平然と議員を続けている人々がいる。追及の手はいつの間にか緩み、誰も興味を示さなくなっていく。
個別に見れば一つひとつが重大な背任や不正であるはずなのに、全体の中に紛れ込み、やがて「なかったこと」にされていく。この不条理が当たり前になってしまった社会は、健全と言えるのでしょうか。
茹でガエルの私たちは、どこへ向かうのか
私たちは、刻一刻と国がダメになっていくのを、熱湯に浸かった「茹でガエル」のように見過ごしているのかもしれません。いえ、見ることさえ拒み、苦しんでいる自覚すら持たずに、ただ流されているだけなのかもしれません。
「それでもいい」と、いつの間にか皆で諦めてしまったのでしょうか。テレビのコメンテーターが「大した額ではない」と問題を矮小化するたびに、私たちの社会の品格もまた、少しずつ削り取られている気がしてなりません。
忘却は時に救いになりますが、不正に対する忘却は、未来への毒となります。スクロールの手を止め、一度深く掘り下げて考えること。そんな当たり前のことが、今最も難しく、そして必要なことなのではないでしょうか。






