「正月は冥土の旅の一里塚」を学生でもわかる言葉で読み解く
SNSで見かけた一休さんの狂歌
SNSで、有名人の名言を紹介するbotが
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
という句を流していました。
そのとき、私は「なんてうまい表現なんだろう」と思いました。作者名を見ると、一休宗純と書いてあります。
アニメなどでも知られている、あの一休さんです。
この狂歌(くるうた)が優れているのは、
正月というお祝いの場面に、人生の“明るさ”と“さみしさ”が同時に入っているところ
です。
昔は「正月に年を取る」と考えられていました。だから正月はめでたい日なのですが、同時に「年を取る=死へ近づく」という、少し不安な気持ちも含んでいたのです。
その二つの感情を、
「めでたくもあり めでたくもなし」
という短いフレーズでまとめたところに、この句の見事さがあります。
さらに「冥土の旅」は人生を旅にたとえた言葉。「一里塚(いちりづか)」は昔の街道にあった、
一定の距離ごとに置かれた目印
のことです。旅の途中で自分がどれだけ進んだかを示すものですね。
この二つを組み合わせることで、
「正月が来るたび、人生という旅はゴールに一歩近づいていく」
という深い意味まで読み取れるようになっています。
ちなみに「狂歌」とは、和歌をほんの少し崩して、風刺(ふうし)や皮肉を入れた“遊び心のある詩”のこと。江戸時代に特に人気がありました。
一里塚ってどんなもの?
狂歌に出てくる「一里」は、
約3.9km
という距離の単位です。この距離が定められたのは、織田信長や豊臣秀吉の時代だといわれています。
そして「一里塚」とは、その3.9kmごとに作られた小さな盛り土のことで、旅人にとっては「今ここまで来たぞ」と確認するための場所でした。
上には木が植えられていることも多く、木陰で休むスペースとしても役立ったようです。
一里塚が本格的に整備されたのは江戸時代の初め。徳川家康が、日本橋を起点とする主要な街道を整えたときに、各地に設置されました。
しかし時代が進み、江戸の中期になると手入れが行き届かなくなり、多くの一里塚が崩れたり、姿を失ったりします。
農民にとって使う機会が少なかったことや、藩や幕府の財政状況が厳しかったことなど、いくつもの理由が重なりました。
そして明治になると道路の形が大きく変わり、古いものを壊して新しくする考え方が強かったため、一里塚の多くがそのまま姿を消してしまったのです。
一休さんと一里塚の“時代が合わない問題”
さて、最初の狂歌
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
について、「一休さんが詠んだ」とよく言われますが、ここには大きな問題があります。
一休さんが生きたのは
室町時代。
一里塚が登場するのは
江戸時代
です。
つまり、一休さんがこの狂歌を詠むための知識や背景が、そもそも存在していないのです。
さらに、狂歌というジャンルが大きく発展したのも
江戸の中期
です。時代の流れで見ると、どれも一休さんの時代より後のことになります。
つまりこの狂歌は、
「一休さんが言いそうな句」として、後世の誰かが作り、それが広まった
と考えるのが自然です。
江戸時代には“一休ブーム”があった
この背景にあるのが、江戸初期に出版された
『一休咄(いっきゅうばなし)』
という本です。とんち話を集めた本で、これが庶民に大ヒットしました。
その人気にあやかり、続編が次々に作られ、やがて一休さんは「とんちで有名な面白いお坊さん」というキャラクターとして、しっかり定着します。
さらに狂歌ブームが重なり、
一休さんをモチーフにした狂歌や物語が大量に作られていきました。
浮世絵、黄表紙(きびょうし)、戯作(げさく)、歌舞伎など、当時のあらゆるメディアに登場し、江戸の人々にとって一休さんは“国民的キャラ”といっていいほど身近な存在になっていきます。
その結果、
「一休さんがこう言ったら面白い」という創作の句が、まるで本物の名言のように扱われるようになった
というわけです。






